ニューヨーク五番街の高級ホテル「ロッテ・ニューヨーク・パレス」。そのエレガントなサロンで週末ごとに開かれる64人限定のマジックショー「Chamber Magic」に、100年語り継がれるにふさわしい一幕があります。マジシャンのスティーブ・コーエン(Steve Cohen)氏が演じる「Think-a-Drink」——魔法のティーポットです。
観客はカードに「いま飲みたいもの」を書きます。バーボン、オレンジジュース、マルガリータ、果てはミニマシュマロ入りのホットチョコレート。コーエン氏はそれを見ることなく、たった1つの銀のティーポットから、リクエストされた飲み物を次々と注ぎ分けていくのです。「億万長者のマジシャン」の異名を持つ彼の代名詞であり、ウォーレン・バフェットやデビッド・ロックフェラーもこのサロンの客になりました。
科学で作れる「注ぎ分けるポット」——暗殺ティーポット
「1つの容器から違う飲み物を注ぐ」仕掛け自体は、実は科学の言葉で説明できます。科学メディアナゾロジーの解説記事が取り上げた、中国発祥の「暗殺ティーポット(Assassin’s Teapot)」がその代表例です。
このポットの内部は2つの部屋に分かれていて、それぞれが注ぎ口につながっています。取っ手には上下2つの小さな穴。指でどちらの穴を塞ぐかによって、空気圧で一方の液体だけが流れ出る——記事では、下の穴を押さえると青、上を押さえると黄、どちらも押さえなければ混ざって緑、という実験が紹介されています(科学YouTuberのSteve Mould氏の動画が元ネタです)。「相手の杯にだけ毒を注げる」という物騒な俗称は、この仕組みから来ています。
しかし、舞台の「魔法」は道具だけでは作れない
では、コーエン氏のティーポットも同じ仕組みなのでしょうか——答えは「そんなに単純ではない」です。2つの部屋では2種類しか注げません。彼のポットからは、熱いココアも冷たいカクテルも、その場でリクエストされた十数種の飲み物が出てきます。マジック界ではこの演目の系譜は300年以上前まで遡ることができ、道具・心理・演出の積み重ねでできています。
その系譜をたどってみましょう。
- 17世紀——ヨーロッパに「尽きない瓶(Inexhaustible Bottle)」と呼ばれる演目が登場。1つの瓶から容量を超える酒が注がれ続ける。
- 1847年12月1日——「近代奇術の父」ロベール=ウーダンがパリの自身の劇場でこれを洗練させて上演。観客がリクエストした酒を注ぎ分ける形に発展させ、大評判となる。
- 1930〜50年代——米国のチャールズ・ホフマンが、カクテルシェーカー1つで観客の「思い浮かべた」ドリンクを出す12分間の演技だけでスターになり、「Think-a-Drink Hoffmann」を名乗る。当時全米で最も高いギャラのマジシャンだったと言われます。ちなみに「注文を叫ばせると劇場が大混乱になるから、思い浮かべてもらう形にしては」と助言したのは、名著『ターベルコース』で知られるターベル博士でした(当サイトの書籍紹介にターベルコースがあります)。
- 現在——スティーブ・コーエン氏がこの古典を「Think-a-Drink」としてよみがえらせ、ニューヨークで20年以上・数千回の公演を続けています。
つまり「魔法のティーポット」は、一人の発明ではなく、17世紀の無名の職人、ロベール=ウーダン、ホフマン、そしてコーエン氏へと受け継がれ、磨かれてきたバトンなのです。暗殺ティーポットの空気圧の原理は、この長い系譜のごく一部を説明する「部品」にすぎません。
タネを知ることと、魔法が消えることは違う
ナゾロジーの記事のように仕組みが科学解説される時代でも、コーエン氏のショーのチケットは売れ続けています。それは、マジックの価値が「タネ」ではなく、誰が・どんな歴史の上で・どう演じるかにあることの何よりの証明でしょう。当サイトでは、こうした演目の系譜やクレジット(誰が考案し、誰が磨いたか)を大切に記録していきます。
参考: ナゾロジー「毒入りドリンクを注ぎ分けられる『暗殺ティーポット』のトリックを解説」/Chamber Magic(Steve Cohen公式)/Wikipedia: Inexhaustible bottle